降らずとも、雨の用意

茶道

本記事のタイトルは、千利休が弟子から「茶の湯とはどのようなものですか」とたずねられたときの7つの答え(利休七則)の一つ。

想定外のことまでしっかりと気を配り、万が一のことが発生したとしても、困らないように手を打っておくことの大事さを説いた教えです。

最近、この教えを強く感じる出来事があったので記録しておきます。

なぜこれが難しいか

この教えを聞いた弟子は「そんな簡単な事なら私にも分かっています」と反論したそうですが、それに対して利休は「それが本当にできているなら私があなたの弟子になりましょう」と返した、と言われています。


茶聖と呼ばれる利休さん程の人物ですら、その困難さを認めた教え。

何が一体難しいのかを考えてみたら、この教えの難しいところは、想定外を想定することにあると思いました。

まるで禅語のようですが、想定できないから想定外なのです。笑

どのようにすればよいのでしょうか。

私のような気の回らない、想像力に乏しい凡夫が「降らずとも傘の用意」の精神で生きていくためには、失敗の数を重ねること、他人の視点を入れることが重要ではないかと思いました。

失敗の数を重ねる

先生を前にしてお茶のお稽古をやると、何の指導もいただくことなく点前を終えることなんて、万に1つもありません。笑

例えば、茶入れの上に全然茶杓が乗らない時。

小さい茶入れの蓋の上に、丸く削られた茶杓を乗せるのは、茶入れの蓋の形と茶杓の背の形の相性が重要です。

あらかじめ準備する段階で確かめておけば防げる話なのですが、こんなカンタンなことも失敗しないと気づかなかったのです。

たくさんの失敗を重ねるということは、「自分の外にある想定外の事象を削り、自分の中に摂取すること」なのかもしれません。

これは自分の失敗からも学べますし、上に書いた通り人のふり見て学ぶことでもできると思いますが、最も身につくのはやはり自分の失敗ではないかと思います。

他人の視点を入れること

自分ひとりでは、どうがんばっても気づけないことって沢山あると思います。

そういう場合はシンプルに、他の人に意見を求めることも良い手助けになると思います。

利休さんの教えを歌にした利休百首というものには次のような言葉も語られています。

「はぢをすて 人に物とひ 習ふべし これぞ上手の もとゐなりける  」

本来の意味で引用できているか怪しいですが、自分で考えたことや思ったことも、人に話してみる、お尋ねしてみると、思いもよらぬことに気がつくことも少なくないと思います。

意味付けできるか

ここまで書いてきて気が付いたのですが、自分一人でやって失敗した場合も、誰かに相談してその失敗を回避することができた場合も、それを「降らずとも雨の用意」という精神に結びつけて考えられるかということに帰結するかと思います。

センスメイキングと言われることかもしれませんが、ある現象をどう消化するかというところが要点であるように思いました。

知識を身体化する

そう考えると、人生の全てが「降らずとも雨の用意」に関連づけて捉えることが可能なのかもしれません。

じゃあそれだけ考えて生きていけるかというと、そんなことはあり得ません。笑

結局のところ、この感覚をずーっと考えていることというよりも、これが自然にできるように身につけることの方が現実的で、そこを理想とすべきかと思います。

裏千家のHP参照すると、次のように書いてあります。

ふらずとも雨の用意 ―やわらかい心を持つ―

「どんなときにも落ちついて行動できる心の準備と実際の用意をいつもすること」が茶道をする人の心がけであることをいおうとしています。

どんなときにも「適切てきせつに場に応じられる」自由で素直すなおな心を持つことが大切です。

裏千家HPより

さらっと書いてありますが、これほど「言うは易し、行うは難し」なことはありません。笑

そうであればこそ、日々の修行、訓練を通じてそこを目指すことがお茶の目的の1つ。

どんなときにも落ち着いて、適切に場に応じられるようになる。

自由で素直な心を、私は持てるようになりたい。笑

人生100年。

修行を続けていこうと思います。

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