石川嘉右衛門、という人物

(投稿日:2020/06/19 最終更新日:2020/07/22)

NHKラジオ「日曜カルチャー」歴史作家の加来耕三氏の講演にて。

石川嘉右衛門(石川丈三)という人のエピソードがとても面白かったので記録しておきます。

Wikipedia 石川丈三より引用

時は徳川の天下統一直前。

嘉右衛門は武勇の人。

一途な性格で、早く武功を挙げたいと思っておりました。

そして僅か13歳にして家を出て、大叔父のもとで武芸を学びます。

武将となっては徳川家康の側近となってゆきます。

しかし、兎にも角にも武功をあげたい嘉右衛門にとっては困ったことに。

まず、戦乱の世は終わりつつあったこと。

そもそも戦がなければ武功の上げようがないのです。

更に、腕を磨きすぎたのが仇となります。

徳川家康の側仕えになってしまいました。ボディーガードのようなものですから、嘉右衛門はよっぽど強かったのでしょう。

天下統一目前の家康の近くなど、強者どもが周囲を遥かに固めています。

いわば当時最も安全な場所の一つです。戦火を浴びることなんてまず有りません。

武功に近い戦場の第一線など、出られる訳もありません。

石川嘉右衛門32歳、大阪夏の陣の頃。

嘉右衛門は母親から手紙を貰います。

嘉右衛門も13で家を出る豪傑ならば、その母もまた傑女。

手紙には「いい加減に武功を上げねば、親子の縁を切る。もう会わない」と書いてあります。※実母からの手紙です

ここに被せてくる家康の命令。

「戦闘に参加することを禁ずる。手柄は他の諸将に譲るように」

攻めるべきか止まるべきか。

葛藤する嘉右衛門にこれでもかと追い討ちが襲いかかります。

なんと当時の流行病、チフスに罹ってしまったのです。

武功を上げたい。

上げねば、母に縁を切られる。

しかし上司は「行くな」という。

おまけにチフスのせいで意識は朦朧とする。

(凄まじい状況です笑)

結論から言うと、嘉右衛門は病を気合いで克服し突撃。命令違反の一番槍の大手柄を上げました。

戦国時代の常識では、手柄は抜け駆け上等。

結果オーライであれば何でも許されていたそうで、一番槍というこれ以上ない武功を持ち帰りました。

この大手柄に対してどんなご褒美がもらえるかと思ったら、命令違反に対する処分として蟄居閉門を命ぜられたのです。

おいおい、戦国時代のジョーシキは通用しないのかよ、と思うのも無理のない話です。

そして、嘉右衛門が本当に凄いのはここからです。

普通だったら時代や上司を恨んだり、ヤケを起こしたり、ふてくされたりしてもおかしくありません。

嘉右衛門は考えに考えた末、次の結論に至りました。

「戦乱の頃とは時代が変わったのだ。時代が変わったことに気づかなかった私が悪かったのだ」

それまで武骨一辺倒。

勉強などしたことのなかった嘉右衛門は学者に弟子入りし、猛勉強。

武将から学者への転進を図ります。

そして今に知られる嘉右衛門(丈三)は、漢詩・儒学・茶道・庭園設計などで今に知られる立派な学者となったのです。

時代が変わったことを認め、生き方を改める。

困難に直面した時、彼のことを思い出せたら勇気が湧いてきそうだと思い、ここに記録しておきます。

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