社会と自然の境界線

暮らし

放置林

我が集落の外れに、誰にも顧みられることのない一画があります。

土地の所有者は国土交通省か河川管理事務局か忘れましたが、公共団体だそうです。

道路の両側の土手の部分が問題の部分。

下草こそ最近まで刈られていたようですが、木や竹など結構な大きさに育っています。

この草木が生い茂る様を見た住民から草刈りの依頼があったそうなのですが、土地の所有者(公的団体)は「草刈りはできない。地域住民に任せる」との事であったそう。

誰が管理するのか

地域の集会の際に、この土地の管理をどうするかという議論になりました。

「現在でも手一杯の草刈りの面積を更に増やすのか」

「公的な土地の管理を地域が担うのはどうなのか」

「1箇所引き受けると、他の場所も管理を求められるようになるのではないか」

議論は拡散して、着地点が見えません。

そこでお尋ねしてみました。

「もし放置したらどうなるのでしょうか?」

すると、やがては森になる、との事。

いっそ森にしたら

この前の議論に、近所の神社の御神木がサギ山になっており、鳴き声やフンの被害で困っているという話もありました。

ということは。

もしここを「森にすると決めた」としたら…人間は草刈りをせずに済むし、サギにとっても新しい住処となる

これは一石二鳥ではないか、と提案しました。

この提案、「そりゃまた随分気の長い話だなあ」と笑い草になって「放置して森にする」案はまともに議論になりませんでした。

薮を放置して森にする、というのは考えられない話のようです。

ですが、筑後平野のど真ん中、ほとんどの平地が水田に開発されたこのあたりの地域にとって木が生い茂る土地は希少です。

サギだって、他に止まり木がないので鎮守の森に集まるのでしょう。

人口減少時代において、過疎地域では、これまでの生活を保つことは出来ません。

日本全国に広がる放置林や耕作放棄地はますます増えてゆく。

そこはやがて薮となり、林となり、森となる。

放置林=自然の再生

ここ九州は気候の分類ではアジア・モンスーン地域に入ります。

この気候帯では人が手を入れないことによって、自然は自然のままに動植物が繁栄します。

私は、それはそれで良いのではないかと思うのです。

人口減少時代で起こる変化に適応する。受け入れる。

考えようによっては、放置林や耕作放棄とは土地の撹乱を止めて、土地を休ませること。

そこで起こる現象とは、開発によって損なわれてきた自然の回復です。

人が減ることによってトキやコウノトリのような生き物も再び棲みつく事ができるようになるかもしれません。

自然との折り合いの付け方

田舎のいいところは自然が豊かなところとよく言われますが、その実際は、自然と人間社会の境界線の押し合いへし合いです。

その境界線は、人間の絶え間ない努力によって維持されているので、手が回る範囲でしか保つことはできません。

人が減れば、人の領域が減る。

その分、自然の領域が増える。

案外、答えはシンプルなのかもしれません。

人生100年。

自然と社会の境界線について、今後も考えてみます。

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