子どもを師と見る

暮らし

ある有名なお寺をお参りをした時のことです。

いっぱい写真を撮って記念にしよう、一つも撮り残すまい!と全身に煩悩を満たして山門をくぐりました。

ところが拝観料を支払う時になって、拝観料が現金しか使えないことが分かりました。

電子マネーに依存する生活のため、普段あまり現金を持ち歩きません。

「面倒だけどコンビニに行って現金を下ろすか」と門を出ようとした時のこと。

私の少し前に、小学校中学年くらいのお嬢さんがいました。

彼女は私よりひと足先に門を出るや、恭しく向き直り、帽子を取って、ゆっくりと丁寧にお辞儀をしているではありませんか。

そのお辞儀の美しさと言ったらありません。

心がこもったお辞儀とはこんなにも素晴らしいものなのか…。

それに引き換え、この私ときましたら、三十数年も生きていながら自分の事ばかり考えていました。

写真を撮ろう、土産を買おう、現金しか使えないなんて時代錯誤だ、などと「私都合」のことしか考えず、ここまで来てしまったのです。

それどころか何故でしょうか、人前で神仏に深々と頭を下げるということにどこか羞恥心にも似た抵抗感すら抱いていた自分に気がついたのです。

あのお嬢さんと私とどちらが人として立派か、理想の姿かなんて比べるべくもありません。

本当に反省しました。


その後、仕事の先輩の家に泊めてもらう事になっていました。

そこのご家庭にも、お嬢さんが2人いらっしゃいました。

翌朝、お嬢さんたちが学校に行くために家を出る直前、私に向かって「お仕事、気をつけていってらっしゃいね」と言い残して行かれたのです。

彼女たちから見たら、私は突如家に転がり込んできた謎の中年男性です。

それを疎んじるどころか、別れの間際まで優しい心と言葉をかけてくれるその姿には本当に心を打たれました。

例え七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり

修証義. 道元禅師

禅の本にこういう言葉がありましたが、本当にその通りだと思いました。

私より遥か年下の彼女たちも、人生の師匠となる。そう見ていく事ができる。

自分の事を後にする。

何に対しても優しい心を向ける。

誰に対しても敬意を払う。

人生100年。

恥ずかしいほど未熟な自分に気付かされました。

世のため人のために、もっと人格を磨いてゆこうと思います。

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