ある人に尋ねられました。
「お茶を習って、何になるの?」
と。
その問いに対して、少し考えてこう答えました。
「よりよい人間になるため、です」
私にとっての茶道とは、単にお茶を点てるだけのものではなく、人間形成の道なのです。
茶道のよいところは沢山ありますが、その一つはインタラクティブ性にあると思います。
お茶を点てる人、ホスト、亭主。
そのお茶を飲む人。ゲスト。客。
この両者の関わり合いが渾然一体となって出来るのがお茶の世界。
つまり自分一人では成立しない世界なのです。
亭主も客も互いに敬意を払い、準備をする。
身体を動かし、言葉を交わし、思いを汲み取り、飲食する。
この訓練で学ぶものは、社会で生きていく際の大きな拠り所となります。
お茶の道とは、すなわち仏教の道とも言われています。
もともと抹茶はお寺の飲み物で、共に大陸からやってきたので、この2つは切っても切れない関係。
床の間には禅の言葉を掛け軸にしてかける事が多いのですが、これもそれ故。
始めたばかりの頃は、これに関しても美しい水墨画でもかければ良いのに…なんて思っていました笑。
ところがお茶を学んでゆくとだんだんと禅について興味が湧いてきて、今は最も関心のある領域の一つとなりました。笑
禅をもっと学びたい、知りたい。
けれど時間がない…なんてことを思った際に、ふと気づいたのが、原点。
お茶の修行は禅の修行。
これに真剣に打ち込む事は即ち禅の修行であるということ。
先ずは、熱い釜の蓋を素手で持つところから始めます。
熱い釜の蓋は、熱い。
それを持つ指が熱い。当たり前のことです。
ここをどう受け止めるかが、問題です。ここが、修行のしどころ。
熱を帯びた茶釜の蓋を、いざ、持つ。
熱い。熱い。熱い。...熱いだけだ!
辛くはない!辛くはない!
熱い!辛い!笑
だけど、持つことはできた!
火傷もなし!
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まだまだ未熟です。
お茶の修行が禅の修行だと悟ったことで、お茶がより一層楽しくなってきました。笑
人生100年。
先を考えるのもよいですが、歳月人を待たず。
今をどう生きるのか、これが最大の問題なのかも知れません。
そんな事を考え始めました。笑
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