国宝「曜変天目(「稲葉天目」)」南宋時代(12-13世紀)と付属「黒漆天目台」(「尼崎台」)南宋時代(12-13世紀)
四ヶ伝のお稽古のひとつ、台天目について。
これは天目茶碗と、それを載せる天目台の組み合わせによるお手前。
四ヶ伝は全て口伝であり、テキストはありません。
連続写真のテキストがある小習から比べても点前が複雑になっているので、お稽古にはより一層の真剣さが求められます。
知識の補強のため、辞典を引き引き、理解を深めていこうと思います。
天目茶碗とは
鉄質黒釉の茶碗の一種。
天目と称するのは我が国の俗称。
名称のおこりについては、中国浙江省天目山の仏寺の常什であったのを、鎌倉時代に我が国の禅僧が持ち帰った為とされる。
日本製の天目茶碗は瀬戸天目から白天目、燕(つばくろ)天目、菊花(きっか)天目など独自の発展をとげた。
新版茶道大辞典より引用改変
天目台とは
天目茶碗をのせる台。
茶碗と共に中国から渡来した唐物で、黒・赤の塗り物の他、堆朱、堆黒、倶利(ぐり)、存星(ぞんせい)、蒟醤(きんま)、青貝入の塗り物のものもあった。
我が国でも模作が多い。茶湯が盛んになって茶碗の用途が広がると、台天目(天目台に載せた天目茶碗)の使用は仏前への奠湯(てんとう)や貴人への呈茶に限定されていった。
茶の湯で名物とされた天目台には、七つ台(数の台)、尼崎台がある。
天目台は酸漿(ほおずき)、羽(縁)、土居(高台)からなる。
新版茶道大辞典より
尼崎台(あまがさきだい)とは
唐物天目台。
黒漆塗。
地付の内に蜈蚣(むかで)状の印が手書きされているので、蜈蚣台あるいは印台(いんのだい)ともいわれる。
天王寺屋津田宗伯(宗及の祖父か)が七台(ななつだい)の姿を写して渡唐の紫野道堪(しのどうかん)に20台の調達を依頼したところ、道堪は10台をもたらして摂津尼崎に帰朝、その一台は船中に忘れたので9台が伝来したと伝承される(分類草人木)。
七台と並ぶ唐物天目台の名物である。
徳川美術館(2点)、静嘉堂文庫美術館、根津美術館、藤田美術館などが所蔵。
新版茶道大辞典
七台とは
唐物天目台。数台(かずのだい)とも呼ばれた。
黒塗りで真鍮の覆輪がつき、朱塗で一方に梅鉢、他方に一文字が描かれていた。
ただし無紋のものもあったという。美濃国宇留間寺で能阿弥が七つ見出したものと伝承された。
『山上宗二記』には豊臣秀吉が二つと豊臣秀長、前田利家、津田宗及が各一つを所持し、織田信長と松永久秀のものは滅失したとある。
一つも現存していない。
なお、後世になって七台と尼崎台を合わせて数台と呼んだとの説も生じたが、誤りである。
新版茶道大辞典より
もはや一つも現存していないものも、辞典に載る事に軽い衝撃を覚えました。
しかし考えてみたら歴史上の人物も現代生きている人なんて殆どおらず、後継がいない人もザラにいます。
今あるものが全てではない。
人生100年。
人間の歴史の厚みを感じます。
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