(投稿日:2020/11/23)
熊倉功夫先生の著書、「日本人のこころの言葉 千利休」を読みながら、お茶についての学びを深めていこうと思います。
おもてなし、とは
水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶をたてて、仏にそなえ、我も飲む。
南方録
お茶のお稽古は、「型」のお稽古。
お作法(お点前)通りに体を動かして、お茶を提供する練習をします。

….お稽古中はつい「習った型通りに、きちんとできるだろうか」ということに捉われてしまいがちです。
先日のお稽古でも、数ヶ月前にやった型(茶杓飾り、という点前)にチャレンジしようとしましたが、殆ど体も頭も型を覚えておらず、悔しい思いをしました。
しかし、これらの行為の根本は何かと言えば、ただ湯を沸かして茶をたてて飲むことに過ぎません。
以前紹介した利休百首にも、次のような言葉が残されています。
茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶をたてて 飲むばかりなる 本としるべし
利休百首
そして稽古中に先生に言われたことを思い出します。
「型の順番はあとからでも覚えられます」
お稽古で本当にトレーニングすべきことは「ただ茶をたてて飲む」ことを通じて「何か」を学ぶこと。
この「何か」にあたるものはたくさんあると思いますが、そのうちの1つが「おもてなし」のこころ、だと思います。
おもてなし ≠ サービス
そこで最初の南方録に立ち返るのですが、「仏にそなえて、我も飲む」というところにおもてなしを理解するカギがありそうです。
おもてなし、とは英語ではサービス、と訳されることが多いですが、もともとサービスとは「神へ対する無償の奉仕」のこと。
「サービス」という言葉と奴隷を意味する「スレイブ」と語源は同じで、神に対する人間のように絶対的な差がある両者で、下位のものが上位のものに対して行う行為を指します。
仏にそなえて….というところは確かにサービスの要素がありますが、決定的に違うのが「我も飲む」というところ。
お茶の「おもてなし」とは一方的な奉仕ではなく、「互いに豊かになること」が本当のおもてなしなのです。
確かに、良好な人間関係とはどんな状態かを考えると、どちらか一方が疲れる、どちらか一方が負担することで成立するものではあり得ません。
おもてなしをする相手とともに喜び、幸せに、豊かになること。
このこころは、どこでも通用します。
家族とともに、社員とともに、地域とともに、自分も一緒に豊かになること。
人生100年。
これからもお茶を通じて、そういう人間になれるよう精進しようと思います。
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